インターハイと駅伝と受験から得たこと

(この文章について)

これは、 某高校陸上部 OB会から依頼されて、その会報用に執筆したものです。 編集者の了解を得てここに公開しています。 また、会報掲載にあたって紙面の都合で省略した個所について多少加筆・ 修正しています。 当時を知る人が読んだら美化し過ぎだと突っ込まれそうで恐い部分もあります が、現役生に向けてのメッセージという主旨で、という依頼だったので、 あまりふざけてもよくないと思ってまじめに書いた結果こうなってしまいました。 一応嘘は書いてないつもりです。


1988年4月、高校3年生となった私は2つの目標を持っていた。 一つは陸上部での活動、とりわけ前年は出場するだけ(予選落ち)に終わった インターハイでさらに上の結果を出すこと。もう一つは受験生として 京都大学に合格することである。幸運にも、私は両方について自分なりに 納得できる結果を残すことができた。この文章はその当時のできごとや心境を思い起こし ながら書いた回想録である。

競技における目標はともかく、進路に関して京大を志望した明確な理由は なかったように思う。アカデミックなイメージに対する漠然とした憧れと、 東京中心の受験常識に対する天の邪鬼的な反発からかもしれない。 いずれにせよ、それまでこれといった受験用の勉強もしていなかった 私にとって、京大は「目標」とはいえ遠い存在であったのは確かだ。

その距離を縮めるため、私はまず、「私の京大合格作戦」なる本の 過去2年分を買い求め、合格するためには何をどのように勉強すべきかを研究した上で、 一年間の大まかなスケジュールを立てた。 放課後は毎日部活動があるので塾(または予備校)通いという選択肢はあり得ず、定評の ある通信添削と参考書を用いて自習するというのが基本である。もっとも、 陸上の練習がなかったとしても私は塾には通わなかっただろう。 やるべきことがはっきりしていて、それを着実にこなせる限り、 自習する方が勉強の効率はいいからである。

一方、競技の方は、冬季トレーニングを怪我もなくこなせてきたおかげか春先 から調子がよく、4月上旬の記録会でいきなり800mの自己ベストを更新。 気温が上がるのにつれて調子はさらに上向いて、県、南関東大会ともに快勝し、 インターハイ入賞も夢ではなくなってきた。

ところで、インターハイを前にして、入賞ラインぎりぎりだろうと思っていた私は、 もし入賞することができたら、当時勧誘を受けていた 某私立大(一万円札で有名なところ)の陸上部に入るために指定校推薦を希望 しようと考えはじめていた。当時の私は、受験を避けて推薦入学するのは男らしくない、 という妙な信念を持っていて、推薦で進学することには本来関心はなかった。 しかし、その年の陸上での成績が自分の想像以上によかったため、大学入学後 も真剣に競技を続けることを考えはじめ、そのためには推薦制度を利用して 大学入学までの期間も練習にあてる方がよいだろうと思ったのである。

夏休み中も、当然ながらインターハイ、その後駅伝に向けて練習が続く。 この期間は、朝は高校の教室で少し勉強してから正午くらいまで練習、 午後は自宅の近くの図書館、夜は自宅、という感じで少しずつ場所を変えて 勉強していた。 この時期に一度京大向け模試を受けたが、まだ合格を意識できるような成績では なかったように記憶している。

神戸で開催されたその年のインターハイは私の陸上歴の中でも最も思い出深い 大会の一つとなった。入賞を目指して出場した800mは、2着取りの準決勝で3着となり、 ここまでかと思ったところをプラスで拾われて決勝に進出。 決勝でも、優勝候補の一角が大きく崩れるといった運にも恵まれて5位入賞を 果たした。入賞圏内には一歩足りないかと思っていたマイルリレーも しぶとく決勝まで残り、出来すぎとも言える6位入賞を実現した。 私はその決勝レースのアンカーだったが、入賞のゴール後に 他のメンバーに迎えられたときの興奮はいまでも鮮明に覚えている。

さて、インターハイでの結果を受けて、考えていた通り指定校推薦の希望を 出した私だが、見事(?)に落選した。推薦を得るにはまんべんなくよい成績を 取っている必要があるが、芸術科目であからさまに手を抜いていた (そして当然ながら成績もあまりよくなかった)私のような生徒は、そういう点で 失格だったということだろう。 ともあれ、私はこれもある種の啓示だろうと思い、 進学して陸上を継続するという考えをすっぱり捨てて、 受験勉強を継続することにした(ただし、当人の当初の意志に反し、 結果的にはなぜか京大でも陸上部に所属することになってしまった)。

当時の3年生は、遅くともインターハイまでで部活動を引退して受験勉強に 専念するのが普通だったが、長距離部員のうち毎年数名は11月の駅伝まで 競技を続けていた。とくに、私の在籍期間を含む 数年間は比較的長距離の層が厚く、県駅伝での入賞ライン上にあった年が続いて いたため、関東大会出場を目指して残る3年生も少なくなかった。 その年は、正直なところ県大会入賞は厳しいだろうと私は思っていたが、 それでも同期の数名が残ると言ってくれていたこともあり、私も駅伝まで 続けることに迷いはなかった。

合格した後ならなんとでも言えるという話もあるが、私は、 その時期まで部活動を続けることが受験にとって著しいハンデだとは 必ずしも思わない。 勉強に専念といっても、起きている間ずっと集中を保てるものではないし、 陸上、とくに中長距離の練習時間はさほど長くないので、そのために割く 数時間はちょっと長い休憩時間のようなものとも考えられる。 ただし、激しい練習の後は疲れて眠くなることもある。 そういうときは、タイマーを使って10分程度の仮眠を 取ることにしていた。また、秋口以降は、勉強時間を確保するために やむをえず夜の睡眠時間を一時間減らすことにしたが、 その分は受験と関係ない授業の間に昼寝して補った。 当時少しずつ近眼が進んでいた私は、 裸眼でも黒板の文字が読めるように大抵最前列に近い席に座っていたのだが、 担当教師の眼前で、出席の返事をした直後から顔を伏せて寝はじめ、 そのまま授業が終わるまで寝ているという、なんともかわいくない生徒であった。

県の駅伝は、個人としてもチームとしてもほぼ力を出し切ったと思うが、 やはり入賞には及ばず、高校での陸上生活にもついにピリオドが打たれた。 一方、受験勉強については、それまでの積み重ねが徐々に成果を出しはじめ、 現役生の多くが経験することと思われる秋以降の急速な伸びを見せていた。 11月に受けた京大向け模試ではついに最上位の判定を得て、この頃 はじめて合格の可能性を意識した。

合格してもおかしくないといえるレベルに一応到達したことで、私は志望先を京大理学部一本に 絞ることにした。つまり、いわゆる滑り止めの他校は受験しないということだ。 それは、合格する自信に満ちていたからではなく、 ボーダーライン上だからこそ本命校のための勉強に一秒でも 多くの時間を振り向けるべきだと考えたためだ。また、京大は問題形式が かなり特殊であり、私はそれに向けて最適化した勉強をしていたため、 準備なしに他校を受けても合格する見込みは低いだろうと思ったこともある。 当然、この一発勝負に敗れれば即浪人だが、 ありがたいことにその点についての両親の支援も得られていて、 とくに重圧には感じなかった。

試験は一次、二次ともに悪くはないと思えるできであったが、一次試験の点数 があまりよくなかったこともあり、合格の可能性は五分五分か少し悪いくらい だろうと思っていた。実際、試験終了後すぐに「翌年」に向けての準備を はじめていたくらいである。だから、合格の報を受けたときは、もちろん 嬉しかったが、同時に驚きもした。

当時の経験を振り返ってみて改めて思うのは、陸上競技と受験勉強に共通 して要求される資質である。それは、自分の能力を客観的に判断し、 目標を達成することが可能かどうか、またそのために何が必要かということを 考え、それを一歩一歩遂行する力だ。抽象的なレベルでは、こういった ことはどこでも必要だともいえるが、陸上にせよ受験にせよ、結果については 本人が一人で責任を持つという点においてとくにあてはまり、また類似している といえる。 私の場合、中高と陸上を通じて様々な経験をする 中で、自ずとそうした能力が磨かれ、それが受験でも幸いした ように思う。この力は、大学を卒業して社会に出た後も私にとっての大きな 財産となっている。そして、それはある特定の大会における成績や、 特定の大学に合格したという事実よりもはるかに重要なことだ。

本稿は、現役生へのメッセージという意味も含めて、ということでご依頼を いただいて執筆したものである。その観点からは、私は、 陸上(競技)を通じて提供されるこのような自分との対話の機会を大切に してほしいと願う。他の多くのスポーツと違う陸上の よいところは、記録への挑戦を通じて、レベルに関わらず誰にでも その機会が与えられることだ。そこで養われる力は、大学受験のような直近の 問題に対する即効薬になるとは必ずしもいえないが、私が実感しているように、 より長い目で見れば強い味方になるだろう。


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